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IBMiコラム2020.05.27

IBM i のウンチクを語ろう
~ その47: コンピュータの「生存競争」から読み解くITの歴史と市場動向 -3

安井 賢克 著

皆さん、こんにちは。今回眺めるのはPC市場です。あらゆる観点から述べようとすると膨大な量になりますので、主に黎明期のハードウェアに的を絞ろうと思います。製品誕生の経緯を概観し、その後数多くのベンダーと数多くの製品が林立する中で、インテル社製プロセッサを搭載するハードウェアが市場の中で実質的標準の地位を確立する時期に着目しながら、「生存競争」における勝因を探ってみようというわけです。

そもそもパーソナル・コンピュータ(PC)という機器はどのような経緯で誕生したのでしょうか。かつてはマイクロ・コンピュータないしマイコンと呼ばれ、日本における草分け的存在はNEC社が1976年に販売を開始した、TK-80というプリント基板と部品類がセットになった組み立てキットです。はんだごてで自作しなければならないし、キーボードと言っても25個のボタンが並んでいるだけ、ディスプレイも電卓同様8桁の数字(0~9とA~Fの16進数)を表示できるだけという、現代のPCと比べると極めて原始的なものです。それでも10万円を切る価格でありながら、コンピュータとしての一通りの機能が揃っているだけでなく、オペレーティング・システム(機能的にしっかりしたものではなかったのでモニター・プログラムと呼ばれていました)の全ソースコードが公開されている点が受けて、個人で購入する人も多かったようです。販売開始時はコンピュータを組み立てたり操ったりするような趣味は認知されておらず、NEC社が当初狙ったのは、心臓部分にあるマイクロプロセッサなるものを世間に理解してもらい、何かの機器に組み込んで使うための様々な用途を見出してもらう事にあったそうです。そもそも法人向けを想定した製品だったのでしょうか、TK-80が評価キットと呼ばれていた所以です。それが一部の技術力あるアマチュアの目に止まり、触ってみると結構面白かったことから、コンピュータで遊ぶといった趣味分野が形成されてゆきました。TK-80が採用したのはインテル社の8080と呼ばれる8ビットプロセッサなのですが、さらにその源流には1971年に発表された世界初の4004という4ビットプロセッサが存在していました。主な用途は電卓であり、ビジコン社の嶋正則さんが開発プロジェクトを推進されていた事は、業界内では有名な話です。

電卓

ビジコン社は1918年に創立された、当初は機械式計算機を製造し、後にプログラム電卓も手掛けるようになった日本の会社です。自社ブランド製品だけでなく、他社向けにOEM供給もおこなっていました。電卓を製品化するにあたっては、心臓部分に搭載する専用LSI(Large Scale Integrated circuit: 大規模集積回路)をモデル毎に設計・開発するようなアプローチが一般的でした。複数のモデルで製品をシリーズ化していこうとした場合は、それだけ多くの種類のLSIを開発しなければならず、手間もコストもかかります。そこでビジコン社は汎用的なLSIを一つ用意して、搭載するプログラムの違いによって電卓機能に差を設けようと考えました。ところが日本には汎用的なLSIを開発・製造してくれるところがありません。やむなくビジコン社は当時のアメリカのベンチャー企業であったインテル社と提携します。この汎用的なLSIが4004というマイクロプロセッサでした。世界初のプロセッサというアイデアを思い付いたのは日本企業でありながら、実際にそれを具現化したのはアメリカ企業だったというわけです。もし日本のメーカーがビジコン社向けにマイクロプロセッサを開発していたら、今のPC市場は大分様相の違ったものになっていたかも知れませんね。なおビジコン社は1974年に倒産してしまっているようです。

ちなみに電卓用途という事を考えると、0から9までの数字や四則演算記号などを収容し一度に処理できる必要があります。コンピュータが処理できる最小の情報単位であるビットは、0か1かを表す二進数の数字一桁に相当します。そこで4ビットをまとめるようにすれば16通り(2の4乗)のデータを表現できることから、十分な収容力があるとしてプロセッサの仕様が決められたそうです。

時間の経過と共に、さらに多くのデータや文字情報も処理できるようにしたいという発想が出てきます。アルファベット大小文字や特殊記号を収容しながら、旧来の4ビット・データに対する上位互換性を維持しようとすると、プロセッサ・テクノロジーは必然的に8ビット化に向けて進化します。インテルが1972年に初の8ビットプロセッサである8008、改良版として1974年の8080、さらに1975年には8085を登場させたのに続き、市場の成長を見て他社もインテルを追いかけます。1974年にモトローラ社から6800、1975年にモステクノロジー社から発表され初代アップルコンピュータにも搭載された6502、さらにはそれらの互換製品や改良版が林立します。

時間

TK-80の登場は、マイコンを自作したりプログラムを作成したりという、旧来には無かった新たな趣味領域を確立する効果をもたらし、これをターゲットにして多くのメーカーが様々なプロセッサを搭載したマイコンを製品化します。拡大しつつあった市場の中で、インテルの8080陣営とモトローラの6800陣営、あるいは陣営内の各メーカーはそれぞれに覇を競います。おそらく優勢だったのは8080系(単に80系とも呼ばれました)で、中でも最大シェアを占めていたのは本家のインテルでしたが、6800系(同様に68系)もそれなりに健闘しており、市場動向は混沌としていました。マイコンを使いこなすには、当初はプロセッサ・テクノロジーへの依存性が高いアセンブリ言語を利用するしかありませんでしたので、どのプロセッサ、特に80系か68系のどちらを搭載するのかがマイコンを購入する際の重要な判断ポイントになりました。マイコンのメーカーは概ねどちらか一方に色分けされておりましたし、アマチュア界においてもそれぞれに根強い支持者がおりました。その後アセンブリ言語よりも簡易なBASIC言語をサポートできる製品が登場するようになると、アマチュアの裾野はさらに拡がりを見るようになりました。

混沌とした8ビットプロセッサ市場の動向を決定的にしたのは、1976年にザイログ社から登場したZ80です。名称に80の文字がある事から、インテル8080のバリエーション製品であることがわかります。8080プロセッサに対して上位互換性を維持していただけでなく、クロック(動作周波数)の高速化や、8080同様のレジスタ群を「表」と「裏」の2セット備えるなど、性能と使い易さの向上が図られておりました。レジスタ群2セットと言うとわかりにくいですが、例えて言うならば、一つの製品の中に8080が2セット内蔵されているようなもの、と言えば雰囲気は理解いただけるでしょうか。これにより従来の80系プロセッサを採用していたマイコン・メーカーだけでなく、68系に属していたはずのメーカーの中にも、Z80採用に大きく舵を切ったところもありました。当時の市場シェアのデータを探し出すことはできませんが、8ビットプロセッサ市場において最大シェアを占めたのは、Z80だったことは間違いなかっただろうと思います。

データ

それほどの勢力を得たザイログ社なのですが、ホームページを見てみると、現在の主力製品はアプリケーションに特化した組込み型チップであり、Z80の後継を思わせるプロセッサに関する記述は何処にもハイライトされておりません。何があったのでしょうか。次回も引き続きPCの世界を眺めてみます。

ではまた

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著者プロフィール

パワーシステム・エバンジェリスト

安井 賢克
やすい まさかつ

2017 年 11 月付けで、日本アイ・ビー・エム株式会社パワーシステム製品企画より、ベル・データ株式会社東日本サービス統括部に転籍。日本アイ・ビー・エム在籍時はエバンジェリストとして、IBM i とパワーシステムの優位性をお客様やビジネス・パートナー様に訴求する活動を行うと共に、大学非常勤講師や社会人大学院客員教授として、IT とビジネスの関わり合いを論じる講座を担当しました。ベル・データ移籍後は、エバンジェリストとしての活動を継続しながら、同社のビジネス力強化にも取り組んでいます。

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