IBM i のウンチクを語ろう
~ その46:コンピュータの「生存競争」から読み解くITの歴史と市場動向 -2
皆さん、こんにちは。前回に引き続いて、e-BELLNETにアップロードされている資料、「コンピュータの『生存競争』から読み解くIT の歴史と市場動向」の解説コラム第二弾として、UNIX市場を眺めてみます。今やオープン・システムと言うと誰もがWindowsサーバーを筆頭に挙げると思いますが、かつてのサーバー市場におけるオープン化の波の中で、汎用機からの移行の受皿の役割を当初担ったのはUNIXマシンでした。サーバーの役割を担えるWindowsの登場は、1993年のWindows NT 3.1を待つ事になります。さらに性能や機能・信頼性の面から、新しいPCサーバーが実際の業務用途に耐え得ると市場に認知されるまでには、少々の実証期間も必要でした。
UNIXの起源はAT&T子会社であるベル研究所における、1969年のプロジェクトにまで遡ります。DEC(ディジタル・イクイップメント・コーポレーション)社製のPDP-7というミニ・コンピュータ向けに、研究目的で独自にオペレーティング・システム(OS)を開発して、ゲーム・プログラムを稼働させようとしたのだそうです。当時のOS開発というと、ハードウェアに即したアセンプリ言語を使用するのが一般的でした。すなわちUNIXが稼働するハードウェア・モデルはPDP-7に限定されていたわけです。その後1973年にC言語に移植され、メディアのコピー代だけでソースコードが配布されるようになりました。今で言うところのオープンソースの走りです。
C言語はいわゆる高級言語の一つですので、ソースコードを入手しコンパイル作業を行えば、どのハードウェア上でも稼働できます。しかも実質無料で手に入るのであれば、試してみようとする人達も出てきます。それにしても苦労して開発したであろうOSを、どうしてタダ同然で配布したのでしょうか。親会社のAT&Tを取り巻く情勢ゆえに、有償で配布する事はできなかったというのが実情だったようです。AT&T(The American Telephone & Telegraph Company)は日本で言うとNTTに相当する巨大な通信事業会社です。当時はあまりにも市場支配力が高まったために、反トラスト法(独占禁止法)の適用を受け、通信業以外のビジネスに進出する事はできなかったのです。
1977年になるとUNIXは新たな展開を見せます。当初のベル研究所の手によるものが、カリフォルニア州立大学バークレー校によって、BSD(Berkeley Software Distribution)として全面的に書き直されました。それまではアメリカ東海岸のベル研究所によるバージョンが唯一のUNIXでしたが、別にBSDと呼ばれる西海岸バージョンが新たに登場したというわけです。BSDが世間に広まったのは、仮想記憶やviと呼ばれるテキスト・エディターに加えて、1983年になってTCP/IPプロトコルを標準搭載した事が大きなきっかけになったと考えられます。
1960年代後半から、アメリカ国防総省の機関であるARPA(現在のDARPA : Defense Advanced Research Projects Agency)の受託プロジェクトとして、軍事攻撃にも耐えられるネットワークの研究が進められていました。背景にあったのは、旧ソビエト連邦(ソ連:現在のロシアにほぼ相当)を仮想敵として1989年まで続いた冷戦です。アメリカと旧ソ連という超大国間における直接の軍事衝突は発生しませんでしたが、同盟国を多数巻き込んだ対立と軍拡競争が繰り広げられました。自国防衛の観点から、万が一ICBM(Inter-Continental Ballistic Missile:大陸間弾道ミサイル)等によりアメリカ本土が攻撃されたとしても、十分に反撃できる能力を確保できる事が明らかであれば、相手に攻撃を思い止まらせる抑止力になります。そのためには軍隊としての指揮命令系統を維持できること、すなわち相手の先制攻撃にも耐えられる通信網の維持が必要です。例えばツリー状に構築されたネットワークはその幹の部分にダメージを受けたら、全体が機能不全に陥ってしまいます。網の目の様なネットワークであれば、どこかの拠点がダメージを受けたとしも、迂回路を確保する事で通信機能は損なわれません。これはARPAnetと呼ばれており、その後のインターネットの原型になりました。そしてBSD UNIXが標準搭載したTCP/IPは、ARPAnet利用の前提となるプロトコルでした。
それまでのコンピュータとは無縁だった通信機能を搭載する事は、新たに導入しようとするマシンを選定する上での新たな判断基準になりました。ネットワークに接続する人が誰もいなければ通信機能は何の価値ももたらしませんが、既に多くの人が利用していたとしたら、その事自体がBSD UNIXの価値を高め、さらにユーザーを増やします。マーケティングの世界で言うところの、「ネットワーク外部性」が効果を発揮したというわけです。
ベル研究所発祥のUNIXとカリフォルニア州立大学バークレー校発祥のBSD UNIXは、どちらが由緒正しい標準のUNIXであるのかを巡ってしばらく対立します。アメリカ東海岸と西海岸、フォーマルと反骨、という文化の違いも背景にあったのでしょうか。IBM社のAIX、HP社のHP-UX、Sun Microsystems社のSolaris、その他のフリーのUNIXなどがどちらかの陣営に属したり、一方に属しながらも他方の陣営の優れた部分を取り入れて二股をかけたり、どちらの陣営からも距離を保ったりと様々な様相を呈します。ユーザーそっちのけで一体何をやっていたのだろうという気がしますが、UNIX市場が成長を続けている間はまだ余裕がありました。その後Windowsサーバーが台頭し、UNIX市場を侵食するようになると内輪で争うどころの騒ぎではなくなったため、対立は解消されるに至ります。両者は現在一本化されていて、「UNIX定義」(Single UNIX Specification)と呼ばれる基準に準拠していると認定されれば、UNIXを名乗る事ができるようになっています。ちなみに似て非なるOSであるLinuxはこの認証手続きを経ていません。頻繁にカーネルが更新されるので、都度手間とコストをかけて認証作業を行っていては、迅速にユーザーに製品改良版を提供する事ができなくなる恐れがあります。そこで、LSB(Linux Standard Base)と呼ばれる独自の基準を設けています。
さて、黎明期以来コンピュータと言えば汎用機を指す時代が長らく続いた中にあって、分散型のオープン・システムは1980年代以降徐々にその勢力を伸ばして、既存市場を侵食してゆきます。わざわざプログラム書き換えの労力をかけてまで移行したユーザーも少なからずいらっしゃったのですが、それほどまでに新しいサーバーは魅力的だったのでしょうか。恐らくその最大の理由はコストです。IBMのWebサイトによると、1970年6月30日に発表された汎用機で典型的な構成の768KBメモリ搭載System/370モデル155(下位モデルです)の売値は2,248,550ドル、当時の換算レート1ドル約359円を適用すると日本円で8億円を超えます。比較のためのUNIX機の価格を見つける事ができなかったのですが、1台あたり高くともこの10分の1以下といったところでしょう。マシンの持つ機能や性能の違いがあるので、多くの場合旧来の汎用機1台はUNIX機だと複数台に置換わりますが、それでも数億円以上ものコスト削減につながります。マシンの物理的なサイズも価格も小さくなるこの移行策はダウンサイジングと呼ばれ、1980年代からしばらくの間の流行になりました。将来の成長が見込まれる場合でも、当初は1台のみを導入し、必要に応じて都度追加してゆけば投資に無駄が生じないというメリットもあります。
従来一台で担っていた役割を複数台で分担させるにあたって、アプリケーション・サーバーとデータベース・サーバーといった機能によって切り分けたり、生産とか販売といったアプリケーション毎に切り分けたり、様々な形態が考えられますが、重要になるのは相互サーバー間の連携です。通信手順のTCP/IPだとか、データベース・アクセスのためのODBCドライバを標準サポートしている事などは、分散型マシンが普及するための重要な要素になります。一台完結型の閉じた傾向がある旧来の汎用機に対して、標準的な通信機能搭載を前提としながら複数台で処理を行う分散型機は、オープンなシステムすなわち「オープン・システム」と呼ばれました。今日ではオープン性を備えないサーバーは市場において淘汰されていますので、この呼称自体はもはや何か特定のサーバーの特徴を表すものではなくなっているのですが、UNIXやWindowsサーバー、さらに最近はLinuxサーバーの総称として生き残っています。
そろそろ紙面も尽きたようです。次回はPC市場を眺めてみる予定です。
ではまた